2020年1月1日水曜日

神との関係、他人との関係によって本当の幸せへ

新年おめでとうございます。
皆様に神様の祝福があるようにと、心よりお祈りいたします。

今日は少しだけ、聖書のことを書かせていただきます。
みなさんは聖書の中で最も大切な教えが何であるかをご存知でしょうか。それはクリスチャンの方に聞くと、ほとんどの方がすぐ答えることが出来るほどです。

聖書の中で最も大切な教え。それは「神を愛すること」と「他人を愛すること」です。
自分を愛することが先ではないこともポイントですが、聖書が教えるのは、「神を愛すること」と「他人を愛すること」を切り離して考えはしないと言うことです。この二つはセットで考えます。
つまり、私は神様を愛します、けれども、あの人のことは愛しませんというようなことはあり得ないと言うことです。なぜなら、全ての人を愛しておられる真の神様を愛するなら、あなたもその人を愛するはずだからです。

愛すると言うことは一人ではできません。
相手がいないと愛することはできません。また、愛とはとても愛せないような人であっても愛するということこそが、愛の本質です。他人のせいにして愛せないと言ってしまうのは、それはあなた自身に本当の愛が備わっていないことなのです。(だからこそ、真の愛を持っておられる神様の助けが必要なのですが。)
やさしくしてくれるから愛するのでも、かわいいから子供を愛するのでも、ましてや愛してあげていると愛するのでもありません。それは本当の愛の形からは程遠いものです。

「神を愛すること」と「他人を愛すること」と教える神様は関係を大事にすることを伝えています。互いに愛しあう関係こそが、人間の姿なのだと教えています。
 実はここにこそ、本当の幸せがあります。人は幸せを求めます。健康、お金、仕事、家族、などなど、どれも大切です。しかし、たとえそのようなものが満たされなかったとしても、互いに愛し合う関係があなたを本当に幸せにします。
このことを真剣に考えて見てください。確かにそうだと思っていただけるのではないでしょうか。
その上で、あなたはまず何を求めますか。
あなたに本当の愛する心が与えられますように。

2019年12月17日火曜日

2019クリスマス祝会のご案内

クリスマスと聞くと、 みなさんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。
それぞれに自分の思うクリスマスを過ごそうとされる方もおられるでしょう。
では、教会でクリスマスをお祝いすると聞くと、どうでしょうか。自分とは関係がないなと思ったりすることはありませんか。

そもそも、クリスマスは誰がお祝いするものなのでしょうか。
 聖書を見てみますと、クリスマスは全ての人に与えられたものであることが分かります。
ですから、私なんかが教会でクリスマスを祝うなんてと思う必要はどこにもありません。
どんな人でも教会でクリスマスをお祝いしても大丈夫なのですね。いえ、むしろ、すべての人がクリスマスに招待されていると言っても良いでしょう。

私達の教会では毎年クリスマスの祝会を行っています。
この祝会はどなたでも参加することが出来きるものですので、教会は初めてと言う方も大歓迎いたします。

日程は次の通りです。
12月22日(日) 10:30~12:00  クリスマス礼拝
12月24日(火) 17:00~18:00  イブ礼拝

礼拝ではクリスマスにおける聖書の話を聞き、神様からの祝福を受け取っていただきたいと思います。この機会に是非、教会でのクリスマスを味わってみてください。

クリスマスの祝福があなたにもありますように。心よりお待ちしております。

2019年10月29日火曜日

信仰の対象

信仰の対象。それは言わずもがな、天地を創造された真の神様です。
私達はこの神様を信じて信仰生活を歩まされていきます。

教会生活をしていますと、誰かのために祈ると言うことをします。そして、様々な人からこのことために祈ってくださいと言われることは普通にあります。
プライベートのことですので内容はちょっと伏せますが、ある人のために祈りました。その内容はその人にとっても、決して簡単な内容ではありません。しかし、祈りの中でその問題を神様が解決してくださると言う平安が与えられました。
そして数か月後のことです。実際にその問題が解決されたかどうかを試される時が来ます。なぜか不安がやってきます。あの時信仰を持って神様に信頼してゆだねたはずなのに、なぜまた不安がやってくるのでしょうか。あの時平安が与えられたのだから、それを信じればよいではないかとも考えたのです。しかし、ここに落とし穴がありました。私はいつの間にか、神様ご自身への信頼ではなく、あの時与えられた平安にすがっていたのです。あの時平安が与えらえたのだから、それを続けて信じればいいじゃないかと。
しかし、神様から示されたのは次のことでした。過去の出来事や、経験によって信じるのではなく、神様をただ信じるということ。この天地を創造し、私達を愛し、祝福しようとされる神様をただ信じることです。
私ははっとさせられました。そして過去に与えられたことと関係なく、神様ご自身を信じることにしました。 すると、不思議なことに、平安が与えられ、その問題を神様が解決してくださるという確信を持つことになったのです。それまでの不安が嘘のように消え去りました。心に残っているのは平安だけです。

信仰の対象は神様です。それ以外の何物でもないことを聖書は示します。何か別のものによって平安を得ようとするのではなく、神様によって希望や喜び、平安を、愛する心を与えられて行きたいのです。

2019年9月22日日曜日

2019 秋の子供楽しみ会

秋の子供お楽しみ会のお知らせです。

今回の内容はクッキーづくりです。
チョコチップ入りのオートミールクッキーをつくる予定で、小学1年生でも作れる内容となっています。クッキーづくりに興味のある方、食べることに興味のある子もぜひ来てください。お菓子なんて作ったことないと言う子でも、全然大丈夫です。失敗なしの、おいしいクッキーを一緒につくりましょう。

日時:9月28日 午後2:00~4:00 詳細は下のポスターをご覧ください。

一緒に楽しい時間を過ごせたら感謝です。お待ちしています。


2019年6月21日金曜日

2019 夏のチャペルコンサートのお知らせ

皆様、こんにちは。
夏のチェロ・コンサートのお知らせです。

 今年は私達の教会でも過去2回コンサートを行い、とても好評であった黄原亮司さんをお招きしてのチェロ・コンサートを行います。
多くの方々になじみのある曲から、教会で聞くことのできる賛美曲まで、美しいチェロの音色をぜひお聞きください。普段教会でこのような演奏を聞く機会は余りないのではないでしょか。この特別な時間を共に過ごしませんか。壮大で、かつ繊細で、それでいて心が和む調べを一緒に楽しみましょう。
 音楽は神様が与えて下さった素晴らしい贈り物です。その神様を褒め称える時にこそ、音楽は本当の輝きを現すのかもしれません。賛美を通して感じる神様の臨在を少しでも知っていただけたら幸いです。是非、その素晴らしい演奏と、神様があなたに与えようとしておられる祝福を感じてみてください。とても素晴らしいひと時となるでしょう。皆様のご来場をお待ちしております。

開催日時:2019年7月28日(日)、 14時開演(13:30開場)


2019年3月18日月曜日

愛が動機になっていますか

人との付き合いには様々なものがあります。
家族、親族、友達、近所、会社と様々で、それぞれの場所で付き合い方が異なることもあると思います。そして、そこには人間関係が生まれていきます。
全てがうまくいけばよいのですが、なかなかそうもいきません。時には、「もう、あの人のために何もしてあげたくない」とか、「同じ目に合わせてやりたい」とか、不満を持ってしまうこともあるかもしれません。正直、私自身も似たような思いを持ってしまうことがあります。
でも、ある出来事がありました。詳しくはお伝えしませんが、私がある人を何度助けていても、それを受け入れてもらえず、逆に不満を言われたりもしました。そこで、「人の痛みが分かる為にも、この人は一度痛い目にあった方が良いのではないか、この人を助けることは一度やめた方が良いのではないか」ということを怒りと共に考えてしまった時でした。
神様からの語り掛けが私にありました。それはこんな言葉です。「あなたのその考えは、愛が動機になっていますか?」私はその時はっとさせられました。この人のためにと口では言いながら、実際はその考えは怒りから来ている物に過ぎませんでした。愛が動機になっていますかと言う問いに対し、私はそうではなかったと気づかされたのです。
そして、心を鎮め、愛を動機として考え直した時、続けてその人のことを助けてあげることが良いと言う結論になりました。

この体験は今も私を正しい道へと導く助けになっています。
 今自分が相手にしようとしていることは愛が動機になっているか。ただ単に正しいことだからとか、決まり事だから、当たり前だからと行動する前に、それは「愛が動機になっているか」と考えて見るのはいかがでしょうか。

2018年12月7日金曜日

クリスマスメッセージ

ルカの福音書2章11節
「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」

皆さんは今まで、もう早く言いたくて仕方がなかったと言う時がありましたか。例えば初めて子供ができた時の妻は、夫がどんな顔をするだろうかと思いながら、早く子供ができたことを言いたくて仕方がないのではないかなと思います。
冒頭の聖書箇所は天使が野宿の番をしている羊飼いたちに「赤ちゃんが生まれましたよ」と告げ知らせる時の言葉です。おそらくこの時の天使も、もう早く言いたくて仕方がなかったと思うんですね。
イエス様がいよいよ生まれる、その時を待っていて、生まれる、生まれるよ、・・・・生まれた!と、この瞬間に天使が野宿をしていた羊飼いたちの所に輝き現れた。そして天使が言いたくて仕方がなかったことを喜んで告げ知らせます。「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」天使は喜びに満ち溢れたとっても美しい笑顔だったと思います。

この言いたくて仕方がなかったうれしい知らせは誰に届けられていると思いますか。立派な王様にでしょうか、誰からも愛されている人にでしょうか、それとも清らかな人にでしょうか。ここでは羊飼い達に知らせが届けられています。天使がずっと言いたくて、言いたくて、仕方がなかったこの言葉、喜んで伝えたかった言葉は羊飼いたちに届けられました。
なぜ羊飼いだったのでしょうか。羊飼いたちはどんな人でしょうか。彼らは貧しい人達でした。また、ずっと羊の番をしているので、礼拝をするという事などがなかなかできない人達でした。ですから、当時の羊飼いたちはユダヤ人社会の中でどのように見られていたかと言うと、無知な人、汚れているもの、罪人と言うように見られていました。
つまり、神様は心においても貧しい人たちに、罪人と言われている人たちにイエス様の誕生が知らさたという事なんですね。これは全ての人に伝えられているという事でもあるのです。

あなたがたのために、私達のために誰が生まれたのでしょうか。それは救い主です。救い主と言うと、私達を罪から救ってくださる方ということです。私には罪がないと本当に言える人は誰もいないでしょう。罪って認めたくないんですけれども、認めざるを得ない現実が自分の中にありますね。イエス・キリストのことを心から救い主と呼ぶためには、自分が罪人だと言う認識がなければなりません。私が罪人であり、神に敵対しているという認識があって、はじめて、この方はあなたにとっての救い主になります。
人はもし借金をするならば、そのお金を返さなければなりません。罪を犯すなら、その代価を支払わなければなりません。
聖書によりますと全ての人は罪人であって、私達は自分の持っている罪のために、罪の呪いのもとに生きなければならないのです。最終的には罪の代価は死ぬことです。私達は自分の罪のために死ななければならない者です。
罪の恐ろしさと言うのは、自分で自分を殺してしまうようなものです。私はダメだ、私は弱い、私は神様に愛される資格がない、誰にも愛されない、誰の役にも立たないと、こんな風に思い込んでしまう。これこそが罪による恐ろしい結果でもあります。

でも、今日、神様が知らせてくれたのは、神様がすべての人の罪を赦すため、全ての人の救い主としてこの地上に来られたことです。ご自分が十字架で死なれ、私達の代わりに血を流され、いのちを捨てて下さって、あなた方は自分を十字架に付けて苦しまなくていい、自分を恥じなくていい、自分を殺さなくていい。あなたは私によって豊かな命を得るのです、喜びの人生を生きていくのです、永遠のいのちを受けるのだと語ってくださるのです。イエス様はあなたを罪から救い、死の呪いから贖うために来た救い主です。

「この方こそ主キリストです。」
キリストとはなんでしょうか。キリストとはメシヤと呼ばれる救い主のことです。このメシヤというのは、たった一人だけに与えられる称号です。ローマ皇帝だとか、天皇だとか、総理大臣だとかは何代目と言うものが付きますが、メシヤ、キリストと呼べるのはたった一人だけです。つまり、唯一の救いは、唯一あなたを罪の呪いから救ってくれるのはイエス様お一人だけなんですね。
イエス様はあなたの身代わりとして十字架に掛かりました。そして死なれました。もしこの死があなたの為でなかったのなら、ただの無駄死にです。もしほかにも救われる道があったとするならば、イエス様の死は最も愚かで最も無駄な死です。でも、もしイエス様があなたの代わりに死んだのであれば、そしてそれによってあなたが救われたのであれば、イエス様以外に救いの道はありません。

「今日ダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」神様は「今日」とおっしゃっているんですね。ここでの今日と言う意味、それは、すぐにとか、いまこの瞬間、神様の救いを信じたその瞬間なのです。
罪人が救われるまでに、長く待つ必要はありません。もっと良い人になってからでもない、もっと信仰を持ってからでもない、もっと修行してからでも、もっと熱心になってからでもない。キリストの救いを信じたあなたは今日救われる。キリストを受け入れたその瞬間にあなたは救われます。

神様はあなたを愛しています。そして、もし今日、心にイエス・キリストをお迎えしたいという思いをもって求めるなら、イエス様はあなたの心に来てくださいます。どうぞ恐れずに、あなたにいのちと救いと永遠の喜びを与えるイエス・キリストを心にお迎えしましょう。あなたがキリストに一歩近づこうと言う時に、神の今日が来ています。